メッセージ




l. 学士力の養成と理学部学生の気質

   最近,中教審は大学卒業までに学生が最低限身につけなければならない能力を「学士力」と定義し,この能力を身につける教育を大学に要請しています.具体的には,「学士力」は以下の4つの観点からなっています.

1.知識(異文化理解を含む広い教養と専門分野の知識の修得),
2.技能(コミュニケーション能力,情報処理能力の修得),
3.態度(チームワークやリーダーシップ,社会的責任力の醸成)
4.統合的な学習経験と創造的思考力(課題発見及び課題解決能力の育成)

 一方で,経産省は「社会人基礎力」として,前に踏み出す力(主体性や実行力),考え抜く力(課題発見力),チームで働く力(発信力や柔軟性)の修得を大学側に期待しています.企業側が大学生の採用選考で何を重視するかを問うアンケートでは,必ずといっていいほど,「コミュニケーション能力」や「行動力」,という答えが最上位にきます.残念ながら専門知識を期待する声はあまり多くはありません.

 実は,ずっと以前の大学教育の中では,中教審や経産省が言い出した項目はすでに教員と学生の間で共有されており,それを意識した特別の教育を行わなくても自然と問題解決がなされてきました.

 しかし,時代は変わり,入学してくる学生の意識も大きく変わってきました.これに対応して,高知大学でも平成20年度の共通教育から新しい授業科目「大学基礎論」や「課題探求実践セミナー」(いずれも必修で1年次に履修)が開設され,特にコミュニケーション能力や課題解決能力を意識した教育が始まりました.これらの科目について,教員側に賛否両論があるのは事実です.しかし,2年間の授業実績を見ると,学務委員長の立場からはある程度の効果があるように見えます.

 「大学基礎論」履修後の学生の自己分析シートをみると,理学部学生の気質の一端が垣間見えます.例えば,「失敗を恐れず常に前向きに行動する意欲がありますか」との問いに,16%の学生が「強くそう思う」と答えています.しかし,同じ問いに教育学部と農学部学生は,それぞれ,32%,28%が「強くそう思う」と答えています.また,「グループで活動する時に,他人の考えや意見を理解しようと努力していますか」との問いには,理学部学生の28%が「強く努力している」と答えていますが,教育学部と農学部学生は,それぞれ,45%,40%と,より高率です.理学部学生の判断は何かにつけ控え目なのです.

  理学部では,大学での4年間の学習成果として,社会で必要とされる「学士力」が実際に身に付いているかどうかを確認するために,今年度から,卒業予定者に対して「学士力確認テスト」を行うことになりました.実施方法は各教育コースで異なりますが,基本的に以下の4つの観点について学生個人ごとに評価します.

1.プレゼンテーション能力
2.課題探求能力(課題発見能力/課題解決能力)
3.理学士としての基礎能力(数学力、科学英語理解力,情報スキル関係能力)
4.専門分野基礎知識

 前の2項目は4年次の卒業研究や課題研究の年間の取り組みを通じて評価し,後の2項目は筆記試験や口頭試問等によって評価します.今後これらの取り組みを通じて,少しでも学生の学ぶ意識や社会で必要とされる力が向上していくことを,5年間の学務委員長職を終えるにあたって期待したいと思います.(2009.11.30.TS:理学部後援会だよりへの寄稿)



k. 大学で何を学ぶ?

   私は学生時代に某大学の理学部で学び,その後,縁あって27年前に高知大学理学部に教員として採用されました.そんな経歴を持つ私の思いです.

 さて,今更ですが自分が学生時代に何を学んだのかを振り返ってみると,実は明確な答えはでてきません.それもそのはずで,私は「○○を学ぶぞ」と意気込んで大学に入学したからではないからです.おそらく今の学生も,そんな気持ちで大学に入学している人が少なからずいるのではないでしょうか.私を含めて当時の友人の多くは「大学では授業を受けることが重要ではなく,自ら何かを見つけることが必要」と抽象的に考えていました.私の通っていた大学では学生運動がしぶとく残っており,授業中に先生が角材を持ったヘルメット姿の学生に襲撃されたり,それを恐れてほとんど開講されない授業があったりと,そうした背景がこういった考えに強く影響していたのかも知れません.一方で,私達に「何か」がたやすく見つかるはずもなく,また,それを口実に授業を欠席していた人も沢山いました.当時は出席を取る先生がほとんどおらず,極端な例では一度も授業に出ずとも試験に合格すれば単位が取得できました.先生も「学生が授業に出席する」ことが「学ぶ」ことに直結はしていないと思っていたのでしょう.(2009.11.30.TS:理学部後援会だよりへの寄稿)

 時代とともに,学生気質も,大学の教育方針も大きく変わってきました.正直言うとなかなかその変化についていけない自分がいるのですが,多様な目的を持って入学してくる学生に,あえて大学で何を学んだら良いかを助言します.まず「豊かな教養」を身につけること,そしてその延長上に「個々の専門分野での知的好奇心」が芽生えてくれば,取りあえずは大学で学ぶべき50%が達成できると思います.残り50%は,大学時代に多くの人とコミュニケーションを持ち,多くの友人を得て,それを通じて自分の視野を広げることです.この部分は教員がサポートできる部分ではありませんので,皆さん方の努力次第といったところでしょうか.健闘を祈ります.(2009.1.29.TS:共通教育パイプラインへの寄稿)



j. 大学と教育

 34年前に私は大学に入学した.先ず教養部で一般教養を2年間学び,その後,理学部に進学して専門(生物学)を学んだ.4年次には授業がほとんどなかったので,専門の授業は結局1年間しか学んでいない.入学してすぐ,私は一般教養の「線形代数学」の授業で,高校と大学の圧倒的なレベルの差を感じた.ベクトル空間や写像といった高校の数学ではなじみの薄かった分野が容赦ないスピードで展開された.教科書を見て勉強しようにも不親切な記述が多く苦労した.同じ時期に,イプシロン-デルタ論法の「微分積分学」やシュレディンガー方程式やハミルトニアンがどうのこうのという「物理化学」の授業もあったが,私はなんとか自分の力だけで乗り切ってこれらの単位を取得した.これは,以後の自分への大きな自信になった.

 当時の理系大学教員は,相当高い確率で「学生が理解できなくても構わない.分らないのは学生のせい」と思って授業をしていたようであるし,創意工夫をして分かりやすい授業を目指していた教員は,多分,ほとんどいなかった. この時代の大学の教育方法が良かったとはお世辞にも言えないだろう.しかし,それ故に,自分に合った問題解決能力が自然と醸成されていったことは事実なのだ.

  今の大学の教育方法は,当時に較べれば格段に向上した.しかし一方で,親切になりすぎている一面もあるのではないか,とも思う.学生のニーズに沿った教育システムを提供することは今の時代当然であるが,それだけで良いのだろうか? 

 授業及びその評価は学生への最大のメッセージだ.教員の授業スタイルは,洗練されたものばかりではなく,多様性があった方が楽しい.私は学部で受けた授業の中で,思い出に残るものが3つある.菅谷教授の「植物分類学」.授業の度に黒板に貼付けられる,少なくとも20年以上は繰り返し使ってきただろうと思われる茶色く変色した模造紙に書かれた植物の図表.その折り目がちぎれそうになっていたところの記憶は強烈である.相馬助教授の「植物形態学」.何故かテローム説という言葉が忘れられない.そして小西教授の「動物生理化学」.失礼ながら内容は全く憶えてないのだが,ものすごいスピードで凄まじい量の板書をしていた.私は目が悪かったので,板書を取るのは早々にあきらめた.しかし,30年間も私の記憶から離れないこれらの授業は,実は,非常に有効な授業スタイルの一つだったのかもしれない.自分の生きる道もその辺にありそうな気がする. (2008.12.9.TS:理学部後援会だよりへの寄稿)



i.「24」

 ジャックバウアーの「24」,シーズンIからVIまでのDVD72枚を3週間ぐらいの間に一気に見た.「24」は評判のドラマだったので,1年半前にはシーズンIからIIIのトリロジーDVDボックスを買い揃え,見る準備を万端にしていたのだが,今の今まで見るのをためらっていた.その理由は実に単純で,私は外国映画が苦手で,登場人物が皆同じ顔に見えて区別がつかなくなり,ストーリーを見失ってしまうことが結構あるからだ.その点では,「24」の登場人物は,皆個性的で分かりやすかった.「24」のCTUに勤務する情報解析の達人,クロエやエドガーは理系の人物の典型で,特にお気に入りだった.理系の人間は先ず専門とする仕事ができねばならない.仕事ができればどんな状況でも頼りにされ,また評価される.エドガーが亡くなった場面では思わず泣いてしまった.大統領を支える補佐官のマイクも実に魅力的だった.

 しかし,「24」を通して最も考えさせられたことは,リーダーの資質についてである.大なり小なりどんな組織にもリーダーは必要だ.一般的にリーダーを選ぶ際には,企画立案能力や実行力等が重視され,加えて組織を束ねる管理能力や責任感が問われる.「24」のデビッドパーマー大統領に対して,私を含めて多くの人は強く共感した.その理由は,彼に,これらリーダーとして必要な能力に加えて,自分を律する強い正義感が備わっていたからだろう.正義感に対しては個人の温度差は大きい.また,「水清くて魚住まず」の諺があるように,ある局面での正義の犠牲は,物事を円滑に運ぶ上で有効に働くこともあるのは事実だ.しかし一方で,「譲れない正義感」は誰にもあり,そのレベルはまちまちだ.それは危機的な状況に陥った時に初めて表面化し,その「正義感」の感度でリーダーの本質が問われる.

 11月のある土曜日の午後,散髪に行くと,開口一番「高知大学はえらいことになっていますね」とマスターに言われた.簡単に新聞報道を解説し,「なかなか皆の意見が上層部に伝わらないようですね」と客観的にやんわり受け答えをすると,間髪入れず「テレビ映画の,踊る大走査線に似ていますね」との返事が返ってきた.的確に言い当てられたことに驚くとともに,心の中でそっとキャスティングすると,室井警視正はXXさんで,青島巡査部長はYYさんか?と勝手に想像した.その一方で,この混乱を収拾するために,パーマー大統領のような人物が颯爽と現れないものか,と淡い期待を持った.(2007.12.10.TS:理学部後援会だよりへの寄稿)





h.セルマーのギター

 ジャンゴラインハルトは,1930年後半からおよそ20年間活躍したジプシーJAZZギタリストの第一人者で,私は大学1年生の時に初めてジャンゴのレコードを買った.現在主流の4ビートのジャズと違い,Minor Swingに代表される2ビートのリズムに乗って彼が奏でる哀愁を帯びた旋律は,没後50年以上経った今でも人気が衰えることが無い.

 先日YouTubeでジャンゴの動画を探していたら,40年代の古いものが見つかった.ジャンゴの弦を押さえる左手の薬指と小指がキャラバン火災での火傷のために癒着して使えないことは知ってはいたが,実際に,残された人さし指と中指の二本だけで縦横無尽にメロディーを生み出していくビデオを見ると圧倒される.そして,この奏法の故に,誰にもまねのできない旋律が出来上がることを再認識させられた.ジャンゴは,1953年5月,ワトソンとクリックがDNAの二重らせんモデルを発表した一月後に, 43歳という若さで亡くなった.

 ジャンゴが愛用していたのは,ヨーロッパで生まれたセルマータイプのギターである.このギターは,現在主流のアメリカ産ドレッドノートタイプのものとは音色がかなり違い,どちらかと言うと一般受けする音ではない.ピアノのような音がする.数年前に,私は長年欲しかったセルマーのコピーモデルDellArteを(家族の反対を押し切って強引に)購入したが,きれいな音を出すのは難しい.ジャンゴの音を真似ようと思っても,どうにも巧くいかないので,今ではあきらめてあまり弾いていない.でも,ひょっとしたらこれは購入したギターのせいかもしれないので,もう一台ぐらいは買って試してみたいと思うのは,ギター弾き共通の習性か.

  ジャンゴの様な音楽をやりたいと,9年前にスイングサムというバンドをA氏と始めた.その後すぐにM氏が加わり,バイオリン,ギター,ウッドベースの3人編成の基本ができた.バンド名スイングサムの「サム」は3人のイニシャルSAMから名付けたものである.9年間に上達したかどうかは別にして,月に1,2度の練習を欠かさず,また年に4回程度の人前での演奏をずっと続けてきた.よく続いていると思う.アマチュアバンドなのだから,まず何より自分達が楽しみ,また,聞いてくれる方々も退屈しないような選曲をするという方針がよかったのだろう.最近では女性ボーカルも加わり,スタンダードな曲(最近テレビコマーシャルで流れているCheek to CheekやAll of Me等)も交えて幅が広がってきた.偶然,想像もしていない方々とライブでお会いする機会も何度かあった.そんな時には緊張する一方で,自分の一面を知っていただけるチャンスを頂いたことに感謝している.バンド仲間とは,後最低10年は続けようと話している.(2007.1.26.T.S.)



g.生活の柄

 このお正月に暇を持て余し,YouTubeで遊んでいたら,偶然,高田渡さん(以降,敬称略)の「生活の柄」を見つけた.フォーク世代末期の私ではあるが,特段に高田渡が好きだったわけではない.しかしこの曲だけは記憶に残っていた.見たのは最近の映像だったが,関西出身の高田渡らしく,中川イサトを交えてブルーグラスのリズムで演奏していた.

 4,5年前だったか,高知に高田渡が来るというビラを大学近くで見たことがある.その時は,「へー,高田渡はまだ歌ってるのか」ぐらいにしか思わなかったが,今思えば,歌をライブで聴く最後のチャンスだった.  高田渡(享年56歳)が亡くなったのは2年前のことであるが,テレビ等で予想外に大きく取り上げられていた.その4,5年前に村下孝蔵が亡くなったときもそうだった.

 「生活の柄」は,沖縄出身の放浪の詩人,山之口貘さんの詩に高田渡が簡単な3コードの曲をつけたものである.山之口貘と高田渡の接点はどこにあったのだろうか.しかし,今の若い人はこんな曲には全く興味を示さないだろうね.(2007.1.8 T.S.)



生活の柄(がら)  作詞:山之口貘 作曲:高田渡

歩き疲れては 夜空と陸との すきまにもぐり込んで
草にうもれては 寝たのです ところかまわず 寝たのです
歩き疲れては 草にうもれて 寝たのです
歩き疲れ 寝たのですが 眠れないのです

このごろは 眠れない おか(陸)をひいては 眠れない
夜空の下では 眠れない ゆり起こされては 眠れない
歩き 疲れては 草にうもれて 寝たのです
歩き疲れ 寝たのですが 眠れないのです

そんな僕の 生活の柄が 夏向きなのでしょうか
寝たかと思うと 寝たかと思うと またも冷気に からかわれて
秋は 秋からは 浮浪者のままでは 眠れない
秋は 秋からは 浮浪者のままでは 眠れない

歩き疲れては 夜空と陸との すきまにもぐり込んで
草にうもれては 寝たのです ところかまわず 寝たのです




f.50歳

 学部,大学院の学務関係の仕事をする役目についてから,髪の毛がよりいっそう白くなった.特に過労になるほど忙しくはないのだが,学務関係のことを忘れることは決して許されないので,メールの返事や書類の作成は期日よりも早めに出すクセがついた.一方,個人的なこと,例えば,依頼された論文の査読結果報告の提出等については,何かと理由を付けて,いつも1-2週間程度遅れることは昔から変わっていない.

 大学教員の本分は教育と研究であるが,長年,教育に対するエフォートを過小にしていたツケがまわってきたせいか,教育することの難しさを今更ながら実感している.よくよく考えてみたら,自分の授業スタイルは恩師の受け売りだったりする.学部の教育熱心な(と同時に研究熱心でもある)若手の教員の授業スタイルに見習うことは多い.

 大学も今はいろいろな評価に振り回されているが,それは一過性のものと思いたい.日本人は互いに評価し合うことに慣れていないから,評価の嵐が過ぎ去るまでは右往左往するのは当然の成り行きだ.しかし,一度評価を体験した後には,暫くすれば,皆落ち着きを取り戻すだろう.ピアレビューで互いに評価し合うことで良い点も沢山あるが,本質は自己評価に尽きると思う.

 今年の5月に50歳に突入した.名実共にオヤジの仲間入りだ.7の???もミスすることが増えてきた.今年は,高知に着任して25回目の正月を迎える.(2006.12.28 T.S.)



e.四釜先生の思い出

 2006年7月下旬,私の大学,大学院時代の指導教員であった四釜先生が亡くなった.突然の訃報にただ驚くばかりだった.四釜先生は,東北大学,弘前大学を御退職後も,ご自宅でこれまでのご研究を総説に纏められるお仕事を続けておられた.2年前に送っていただいた総説(Structure-function relationships in unusual nonvertebrate globins. Crit. Rev. Biochem. Mol. Biol. (2004) 39: 217-259)では,私の過去の論文の幾つかを引用して下さっており,大変有難く思った.ご病気の発症は5年前に遡ると聞くが,遺作となった総説(Nature of the FeO2 bonding in myoglobin and hemoglobin: A new molecular paradigm. Prog. Biophys. Mol. Biol. (2006) 91:83-162) が本年度の出版であることを考えると,ご病気と闘いながらも精力的に御研究を継続されていたことが分かる.門下生に,「研究者のあるべき姿」のお手本を示していたのかもしれない.

 私が四釜研究室の一員であったのは昭和53年4月から昭和56年9月までの3年半程である.その時の思い出は今でも色褪せるものではない.研究について四釜先生とお話しするのは年に2,3度で,その数少ないチャンスになんとか自分の研究を最大限にアピールしようと緊張して対話に望んだ.それは他の皆も同じだった.研究以外の面では気さくなところも多くあり,まだカラオケが一般化していない時代に,「青葉城恋歌を練習したいからギターの伴奏を録音してくれない?」と頼まれたことがあった.「イントロのあと,ここから入りますから」といっても,少し遅れ気味になることは今となってはかけがえのない懐かしい思い出.

 四釜先生は,東北大学の生物学教室の歴代の出身者の中でも秀才中の秀才といわれた方である.大学院時代にNatureに2本論文を書いていることが,それを証明している.ご研究のスタイルは地味な部類に入ると思うが,科学史に長く残るようなオリジナルな着実な研究を常に目指していたように思う.深く真理を追究していくスタイルと,それを支える物理化学の知識の豊富さには圧倒されるものがあった.私の大学院の面接試験の一コマ.四釜先生「これからの生化学を深化させるためにはどのようなバックグラウンドが必要だと思いますか?」,私「(量子生物学入門という本を数ページ読んだ直後だったので,きっぱりと)量子化学です」,四釜先生「僕は熱力学だと思います」,私「そ,そうですね」.

 研究者としての四釜先生の存在があまりにも大きく,手の届かない存在であったので,門下生で四釜イズムを継承していける人は少ないかもしれない.しかし,流行に惑わされず筋の通った研究を続けることぐらいは私にもできそうだ.(2006.8.28 T.S.)



d.Ring out the old, and ring in the new

 ジョージ・ハリスンの30年前のある曲の歌詞の一節.ジョージって誰?という人も多くなってきたので説明しておくと,元ビートルズの一員である.残念ながら,数年前に病死した.”鐘を鳴らして古きを送り出し,鐘を鳴らして新しきを迎え入れよう”の意で,曲のほとんどはこのリフレインで構成されている.ジョージの曲にはこの他にも,単純な繰り返し,例えばMy Sweet Loadのようなものがあり,それは逆に新鮮だった.何かを伝えたい時には,回りくどく難解な言い方よりも,単純な方が心に響く.

 振り返ってみると,自分もずいぶんと古いものを捨て,新しいものを取り入れてきた.研究や実験のやり方にしても,新しいものにはすぐ飛びつき,古いやり方はいとも簡単に捨て去った.それが進歩するために必須だと感じていた.しかし,自分がthe oldになりつつある現在,古きやり方や,古くさい考えや,古びたものの中にも,味わい深い歴史があり,時には妖しく美しい光を放つことがあることにやっと気づいた.

 もっと最新の機器類があれば,もっと早く高感度で分析できる,もっと研究も進展するのに,と思っている人は多いだろう.設備に恵まれない我々のようなところでは,その悩みは深刻である.しかし,新しき状況も,やがては,もっと新しいものに取って変わられる.しかも,より急速に.我々が目指す真理の幾許かは,古いものからも,手の届く範囲にあると信じたい.(2004.9.22.TS)



c.僕の好きな先生

 題名を見ただけでピンとくる方は,私と同世代の可能性が高い.忌野清志郎率いるRCサクセションのヒット曲である.そこに登場する先生は,煙草を吸いながら,いつも一人でいる美術の先生.美術の先生はともかく,自分も含めて,理科の先生は変わっている人が多いのは事実.我々は究極のオタクだ.

 正直いうと,私は心が冷たいのか,尊敬できる方にあまり多く出会ったことはない.その中の数少ない一人が,高校時代に数学を教わったG先生である.私は,今では珍しい理数科クラスに所属しており,G先生には3年間,毎日数学を教えていただいた.G先生は,60歳を超えていると思われる老人だった.

 授業は言葉少なめで,当然派手なパフォーマンス等もなかった.しかし,いつも通常の解き方に加えて,エレガントな解法を用意していており,時にはそれを披露してくれた.授業の合間に質問に行くと,ほとんどは即座に,鮮やかに解いて下さったが,時には,”今解らないので,明日まで待ってもらえますか”という返事が返ってきた.それらすべてが,とにかくカッコよく,エレガントだった.

 ご自宅では和算を研究しており,その素晴らしさも私達に伝えたいようだった.G先生の様になりたいと思い,大学は数学科に行こうと思ったが自分の才能を考えて断念した.今でも,G先生の様にエレガントに振る舞うことは私の理想となっている(無理だけど).(2004.9.18.TS)



b.記憶に残る学生さん(その1)

私が25歳で高知大学に助手として着任し, F先生に連れられて初めて研究室に顔を出した時,お茶飲み場のテーブルに二人の男子学生(K君とI君)を見つけた.自分と年が近いこともあって,初対面に関わらず気さくに話せた思い出がある.おそらく,新しい先生が来るというので待ち構え,私は品定めされていたのであろう.K君は生化研所属,I君は植物生態研所属の四回生だった.

 ほどなく,私はK君が努力家で,かつ格別に優秀な学生であることに気付いた.何かタンパク質を取ってみたいという彼の要求に答えて,私達は話し合い,ある生き物から当時大きな注目を浴びていたカルモデュリンを取ろうということになった.その日の夜,私はやり方が記されている英語で書かれた論文を彼に手渡した.翌朝,私は驚いた.彼はすでに論文を全訳し,さらに精製に必要な溶液や器具まで完璧に準備していたのである.そして一言.”さあ,やりましょう”

 I君は,虫好きのロマンあふれる学生だった.何年か病気のために休学していたので,年は私より上だった.分野は違ったけれど,トサヒラズゲンセイを初めとする昆虫研究ですでに立派な業績を上げていた.卒業研究発表会では,河川の植物群落の遷移にまで話が及び,素人の自分にもそのすごさが理解できた.彼は,ある大学院に合格していたけれども,自分の年齢のことを考えて,高知の私立T高校に勤めることを選んだ.卒業後も,何度か一緒に居酒屋で飲むチャンスがあった.私は,I君と呼んでいたけれども,心の中ではいつもIさんだった.彼の病気が再発したのは,教師になってから3年後くらいのことだったろうか.重い病気とは知らず,安物のイチゴを買って,ある病院に彼を見舞った.彼は元気そうにふるまっていた.その後彼は転院し,しばらくして,私は彼が亡くなったことを知った.彼からいただいたゲンセイの研究論文の別刷りは今でも大切に保管してある.(2004.9.17. TS) 付記:何とかトサヒラズゲンセイを材料に使って論文を書きたいと思っていたが25年後にやっと実現した(Tanaka, K., Ichinari, S., Iwanami, K., Yoshimatsu, S., and Suzuki T. (2007) Arginine kinase from the beetle Cissites cephalotes (Olivier). Molecular cloning, phylogenetic analysis and enzymatic properties. Insect Biochem. Mol. Biol. 37: 338-345).



a.学位記

 私が理学博士の学位を東北大学からいただいたのは1986年の1月のことである.29歳だった.東北大学の修士課程を出て,博士課程にほんの半年だけ在籍した後,高知大学に助手として勤めたので,学位取得にはもう少し時間がかかると思っていたが,いろいろな先生に助けられて早期に取得できることになった.

 仙台の1月は寒い.小雪のちらつく中,後に妻となる女性とともに私は大学内の会場に急いだ.その時私は学位に対して驕った考えを持っていた.学位はいずれ誰でも取れるもの,持っていてもさして役には立たないもの.

 会場に入り,椅子に座って学長から学位記を受け取る順番を待っていた.バッハのG線上のアリアが荘厳に流れていた.私は音楽好きでいろいろな音楽を聴いてきたが,今まで味わったことのない感覚だった.やがて学長の講話が始まり,それが終わって,二,三十人の学位取得者が順番に学位記を手渡されていった.もうすぐ自分の番となる時だった.私は前の方に座っていて気付かなかったが,私の直前に学位記を受け取った方は80歳近いと思われる老人だった.学位論文の題名が読み上げられ,長年,独学で続けられてきた自然史に関する業績が評価された結果だと知った.そして,同時に自分の学位論文がとてもちっぽけなものに感じられた.

 博士の学位は,ただの研究論文の寄せ集めではなく特別なものだと思いたい.少なくともいままでの研究に対する自分の感情が凝縮されたものであって欲しい.来春,理学研究科から第一期の博士号取得者が誕生する.彼等は学位記を受け取る時にどう感じるのだろうか.(2004.9.15. TS)




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